とあるXの戯言

色々社会不適合者の話

Xジェンダー当事者でその他色々社会不適合者による、どうでもいい話たち。

2018/10/17 J-WAVE 「JAM THE WORLD」UP CLOSE 書き起こし

皆さんこんにちは。
適度に晴れて寒くなったので色んなことにやる気が湧いてきています。多分。

しっかし更新すんのひっさびさだな。
つっても今回は完全に借り物のコンテンツなわけですけど。



※ついったとかで見て書き起こし読みたくてリンク飛んできた人は、しばらく前書きが長いんでサーっとスクロールしてすっ飛ばしてください。お手数おかけします。



少し前の2018年10月17日(気付いたら1ヶ月近く前……)、FMラジオのJ-WAVE、夜7時~9時の

「JAM THE WORLD」という番組の「UP CLOSE」というコーナーにロバート・キャンベル氏が出演したんですね。

その放送を私が知ったのは、ついったでプロモーションついーとがTLに乗ってきたからなんですが。
このとき初めてついったのプロモーションついーとに感謝した。



で、ちょっとリアタイはキメられなかったんですけど、放送直後にタイムフリー聞いたら、

めちゃめちゃよいじゃないかと。

何がよいって、入り口としては件の新潮45から始まって、日本を持ち上げ本だったり中国韓国のヘイト本だったり、カミングアウトに関してなど、セクシャルマイノリティを中心に色々話されているんだけれども

これが、かなり高次元なのに分かりやすい言葉でトークが繰り広げられている。

もうあまりにもよすぎて

連続3回も聞いちゃった。

※こんなブログわざわざ見に来ている人からしたらあまりにも当たり前すぎることかもしれませんし、このあとの書き起こしでも言及されていますがあえて説明しますと、ロバート・キャンベル氏は新潮45の記事に対して自身のブログで抗議文を出したのですが、その中であまりにもさらっと自身がゲイであることをカミングアウトしています。

そもそもとして、万が一ロバート・キャンベル氏自身のプロフィールや新潮45って何やらかしたのってことから知りたい人は、それぞれのキーワードでググろうな。新潮45に関しては、「新潮45 杉田水脈」とでも入れりゃいくらでも記事が出てくるだろうよ。



で、もちろんついったですぐ「みんなradikoのタイムフリーで聞こうな!」(※20:19からにするとちょうど本コーナーから始まります)って引用RTしたんですけど、ここでまたすごく当たり前のことを言いますけど

タイムフリーで無料で聞ける人って関東の人だけじゃね?
しかも一週間だけじゃん(つまり現時点ではとっくにタイムフリー期間は終了しているわけです)

ということに気付いたので、僭越ながら皆さんとこの高次元なトークを共有できるように、そして一週間後にradikoで聞けなくなってもしばらくはこの記事で残るように、何より俺が忘れないように、このコーナーを書き起こすことにしました。



というわけで、大変お待たせいたしました。以下書き起こしです。



安田氏(コーナーナビゲーター。以降、安):J-WAVE JAM THE WORLD、UP CLOSEのコーナーです。水曜日は私、安田菜津紀が気になっている話題を取り上げていきます。
さあ、LGBTの方々への差別的な表現であったり、あるいは企画で批判を浴びた月刊誌『新潮45』。先月の25日に休刊を決めてから間もなく1ヶ月が経とうとしています。
波紋を呼んだ『新潮45』を巡る問題、そしてLGBTの方々を取り巻く日本の現状は、今どうなっているんでしょうか。今夜はこの方と一緒に考えていきたいと思います。『新潮45』に掲載された自民党杉田水脈衆議院議員の「LGBTは生産性がない」、他にも問題意識をもっている文章、私にとっても沢山あったんですけれども、こういった意見に対してご自身のブログで反論されたロバート・キャンベルさんを今日はゲストにお迎えしています。
キャンベルさん、こんばんは。

キャンベル氏(以降、キ):こんばんは、安田さん、初めまして。

安:初めまして、よろしくお願いいたします。

キ:こちらこそ。

安:J-WAVEはよくお越しになっていますよね。

キ:ありがとうございます、ちょくちょく呼んでいただくことがあって、いつもすごく楽しみしています。
この眺めがすごく好きで。

安:そうですよね、色んな時間帯に来られるとまた雰囲気が違って。

キ:表情が変わりますよね。

安:今日はそんな風景も眺めながら、ちょっとリラックスしながら、でも今日はお話聞けるのを、私もすごく楽しみにしていたので、伺っていきたいと思うんですけれど。
まず冒頭でもお伝えしたとおり、この『新潮45』の休刊から間もなく一ヶ月が経とうとしていると。

キ:ああ、そうですよね。

安:そうですよね。内容自体は後ほどうかがっていきたいと思うんですけれども、この休刊という判断自体は、キャンベルさんどのように捉えてらっしゃいますか。

キ:ええ、あの、胸中複雑なんですね。
えっと、なんかこう、休刊に追い込まれた感じがあって。私は言論の自由っていうのはすごく大事なことであって、書かれていることには私はすごく反論しましたけれども、それを書く、表現する自由っていうのは、すごく我々、私たちにとってすごく大事なことと思うので、世間の見えない風圧に屈したという風に捉えられかねない終わり方をしたような気がするんですね。
とはいえ内容のなかには、人の人格の根幹に関わるような、人の資質ですとか、プライドを傷つけるようなことを沢山書かれていて、まあつまりウソを並べているわけですよね。
だから一つ一つあのウソがなぜ通ったのかということは、一つの出版媒体で検証することなく店じまいをするということは、言論人の一人としては勿体ないというか、本来あってはいけないことではないかと思います。
書かれていることは勿論一つ一つ反駁する、反論するに値することはとても多かったと思うんですけれども。なんかこう、あやふやなかたちで閉じると言うことに対して僕は歯切れが悪い感じはしますね。

安:確かにこうおっしゃったように、検証がないまま扉を閉じられてしまったような感覚は私にもあると思うんですけれど、先ほど「プライドを傷つけられたり」とおっしゃっていたように、これ『新潮45』に限らず、例えば海外から帰ってきて、空港に本屋さんがあったりしますよね。空港の本屋さんでさえ、ものすごく、いわゆるヘイト本と言われるような本が山積みにされていたり、これって私自身はすごく違和感があったりするんですね。

キ:そうですね。安田さん、空港だけじゃなくって新幹線のそれぞれの駅の本屋さんに立ち寄ると、僕もちょっと最近はっとするくらいに似てるような本が並んでるんですよね。
2年半、1年半くらい前までは、僕は勝手に「日本褒めちぎり本」っていう風に呼んでいるんですけど、日本すごいぞっていう、だからイタリア大使は日本が好きでたまらないとか、イギリス人は日本が好きだとかいうようなすごくこう、なんて言うんでしょう、あまり根拠もなくあげていくというか。
それを反転させたようなちょっと鏡映しに、今度は中国であったり韓国であったり、ということに対する、これもあまり根拠がないと言いますか、うまく耳に入りやすいようなかたちでヘイトをまき散らしているような。
それって構図として、なぜ今読者がそういうものを求めているのかということは、根っこにあるものを、私たちはやっぱり少し考えていかないといけないかなと感じましたね。

安:やはりこう今おっしゃったように、無批判に日本を「わーすごい」という風に持ち上げる言論と、逆に相手を落としめることによって自分のポジションをたもつような言論って表裏一体だなって。

キ:僕はすごく同じ土俵に立てると思うんですね。
あれってすごく共通点があって、読むと、一つのこれがすごいんだ、これがダメだってのが、文法というか論理がすごく似ているんですよね。で、入れ替え自在な感じがしていて。
そんななか多分メディアが本が売れないっていうこともあって、一つ売れるとじゃあそれの二匹目のドジョウを狙おうというところがあって、多くの読者が本当に求めているのかっていうのは結構僕は疑問なんですよね。
出版界は、これはテレビでもラジオでもそうかもしれませんけど、ちょっと怠慢なところも。本当に面白い、本当に読者が求めているものを突き詰めていないっていうところがある気がする。

安:確かに。そうですね、それは出版社としてあるいは伝えてとして、本当にこう今突きつけられている問いだと思うんですけれど。
まあ「45」に限らず、そういった過激な言葉で注意を引こうっていうものってこれまでも連発してきていて、「『45』に限らないじゃないか」ってことは言われますけど、逆に今までそういったものが放置されてきたことが問題なんじゃないか、それに対してキャンベルさんはブログで意思表示をしたわけですけれども、なぜそうやって、色んな方が色んなリアクションをされましたけれども、なぜキャンベルさんはブログで意思表明をしようと思ったんですか。

キ:自分のこととして一つはすごく感じたんですね。6、7月に雑誌が発行されて最初に目を通して、立ち読みをしたわけですけれども、いやーくだらない文章だなと思ってて、そんなにそれほど響かなかったんですけれども、やはり電子空間の中で色んな人たちが色んなことを話をしてて、それが呼び水みたいにそうだそうだって増幅していくんですよね。
あのなかで杉田水脈氏が、生産性がないから社会的な支援は必要ない、理解されないんじゃないかっていうのもそうんなんですけれど。
僕はむしろ、あのなかで、LGBですね、同性愛者やバイセクシャルの人たちが不幸であるとか、彼らのことをメディアで取り上げたり、色々情報を拡散することによって不幸な人を増やす結果になる、ということが書いてあって、はっきり言って頭にきたんですよね。
だってそれ、僕の年齢やライフステージとしてはそんなこと言われてももうナンセンス、というふうにしか正直もう思わないんだけれども。
でも私が今まで教えてきた学生であるとか知ってる若い人たちとか、知らない地方に暮らしていて自分のセクシュアリティということを、自分と向き合ってそれがどういうことなのか、自分の根幹、本当にこう生を貫く資質のようなものとしてあるものを、まだ自分の中で十分に、なんて言うかな、折り合っていない人たちに「君らは不幸だ、君らのことをみんなで自由に語り合ったりすることは、お前らみたいな人を社会の中に増やす」っていうことは、二重にも三重にもウソを重ねるっていうことは、非常にフェイクな、具体的に人を傷つける言葉だというふうに、僕は危機感を感じたんです。

安:そうですね。例えば生を貫く芯のようなものっていう言葉が私にもしっくりと来るんですけれど、自分の性的指向、指向というのは「指す」に「向かう」の方ですよね、であったり性自認を自分の努力で変えられるものというふうに扱っているのも。

キ:趣味とか嗜好っていうふうに。あともう一つの「嗜好」ですよね。
趣味みたいなものだっていうふうに言われて、そうするとそれを変えなかった、もう一つの趣味や嗜好のような、「嗜好品」の「嗜好」っていうのは、アクセサリーのように自由につけたり外したり、始めたりやめたり、今日はマウンテンクライミングだけど明日は料理、っていうふうに考えられると、どうしようもないですよね。
自由に自分が選んだことだっていうふうに言われると、なんでそれをやめないの?っていうことに直結するから。
特に若い人、これから就職するとか部活のなかで色々、友達にそれが言えずにいる人たちに、すごく重いふたが被されている、被させられているような力に、風圧になりますよね。

安:重いふたという意味では、もう一つキャンベルさんがご指摘されていたのが、そんなにLGBTの方々にとって、日本って生きづらい社会なのって、例えば親に理解してもらえればそれでハードルが越えられるんじゃないって、そういうニュアンスの文章があったと思うんですよね。

キ:うん。

安:それについては、親に理解されないのが一番の悩みだっていう文章だったと思うんですけれど。

キ:あの文章のなかに社会制度ですね、法律とか条令ですとか、色んなことを支援をする必要がないという一つの理由事例としてそういうことを書いてると思うんだけれども。
最後が親に言うってことなんですよ。一番高いハードルが、親でサシで「母さん、俺はゲイ、私はレズビアンだ」っていうことを伝える、一番ハードルが高いですよ。僕もそうだったから分かるんですよ。
つまり親が、子どもの幸せを祈らない親はいないと思うし、社会のなかでその子どもが幸せになれる、なれない社会、親はずっと見ているわけですから。
LGBが、LGBTが幸せにしてくれない、幸せになれない社会空間の中に子どもを放つということは、親は忍びないわけですよ。その顔を見たくないわけですね、自分の子どもだから。傷つけるし親から否定される、拒絶されること。
日本の場合は、アメリカほど多くないですけれども、家から本当に追い出されてホームレスになったりする子どもが世界中に、LGBTでいるわけですよね。
だから親と子が折り合いをつければいいじゃんっていうのが実はずごく残酷な、残忍な言い方に僕は聞こえるんですね。

安:確かにそう考えると親子関係の問題に矮小化するのではなくて、やはりこう社会に目を向けていくということが不可欠だと思うんですけれど。
そういったなかで、そういった意思表示をするなかで、キャンベルさんご自身も実は、という、「実は」という言い方はされていなかったですけど、私実は最初にブログを拝見したときに、友人のTwitterで拡散されているのを見たんですよね。あまりにも、自然と、「同性パートナーと暮らしている自分としては」ということを書かれていたので、「あれ?以前から公表されていたんだっけな」というふうに非常に自然にすとんと入ってきたんですよね。

キ:ありがとうございます。そうかもしれません。
僕は周りに、周囲の同僚ですとか教え子ですとか、もちろん家族はみんな知っているし、僕のパートナーも個人的な付き合いをしている人たちは知っているし、だから僕にはあまり気圧の谷はそんなにないんですよね。
元々ないんだけど、やっぱり結構大きなこの公共の言論、これラジオとかテレビとかでは言ってなかったんですけど、そういう意味での公表、私にとっても大きなことではあるんだけれども。
あの文章ではやっぱりこれは言わないと、自分の立場を言わないと、そうじゃない人が同じ立場の文章を書いても全然僕はいいと思うけれども、他ならない私が何かを伝えるという、伝えるなかで自分の立ち位置を明らかに、明白にしないといけないというのがあの文章かなというふうに思って、何も考えずに。
あとで読み返して言われたんだけれども、途中で書いてるんですよね。だから最初は他人の話として読めていて、途中で自分のこと少し書いたんで、そこで書いてることがずるいんじゃないかって友達から言われたんですけれど。まあ何も考えずにそうなったんですけれど。

安:そうですか。その途中からの入り方が、先ほど申し上げたように自然だったので、逆に心の中にすとんと落とし込めたのかなと思うんですけれど。
よくこれは聞かれることかも知れないですが、ああいった形で公表したことによって何かご自身の中で、心境でもいいですし、日常でもいいですし、何か変わったことってありましたか。

キ:僕はね、結構斜に構えてて、いい年でもあるし、そんなに何も変わらないんだろうなっていうふうにブログを書いてクリックして発信したんだけれども。
実際にそれが色んな方々から呼んでいただいて、リアクションを聞いたりコメントを寄せられたり、DMとか色んな形でプライベートで色んな方々の経験とかを寄せていただいたんですね。今でも来ますけれれども。
私自身にとって、それまでは私が知ってる人しか知らないことだったんですね。私の知ってる人たちは知ってる。でも私を知らない人たちは知らないことから、知らない人でもみんな知ってるだろうという前提で生きなければならない、というのがあって。
それってフィルターみたいなものがはがれる感じが、ちょっとするんですね。
街を歩いていても、まあみんなが「おお来た、この前公表した人」って思ってるわけじゃないですよね。
だけど僕としてはちょっとこうステップが軽くなるというか、フィルターがちょっと取れて世の中をもう少し余裕をもって見ることができたり、先日原宿を歩いていて明治神宮に入ろうとしたら、僕より10歳くらい年上の男性に赤信号で呼びかけられて、「こんにちは、見てますよ」って。「この前よくぞ "Confession"をしてくれましたね」っていうふうに言われたんですね。そこで僕は「ごめんなさい、それはすごく嬉しいけれども、僕は悪いことをしていないので"Confession"じゃなくて、ただ伝えただけです」ってちょっとあとでなんか。

安:ニュアンス的にですね。

キ:ニュアンスですね。すぐにその方は分かってくれて、「そうか、そうですよね」っていうふうに納得していただいて。そういうことが、ちょっとした出会いが、ちょっとすれ違ったりしたときにニュアンスが変わったりしていて。私はやっぱりしてよかったと思うんです。
でも、みんなにそれをじゃあカミングアウトしましょうと言うことは言えないと思うんですよね。
すごくリスキーなことでもあるし、大切な人間関係や自分の機会を奪われかねないんですよね。あのタイミングというものもあるんでね。ある程度計算をしながら、見ながらということは重要だと思うんですけれど。
ただ日本にまあ僕は遅ればせながらだけども、僕はもう少しオープンにしてもいい立場の人たちは結構いるんじゃないかと思うんです。
ロールモデルというのがやっぱりもっといることによって、皮膚感覚で「LGTBの人って普通だよね、普通の何でもないひとたちだ」っていうことが一番皆さんの理解とか共感を得るのに大事なことかなというふうに思いますね。

安:そうですね。あの例えば、今おっしゃったことは非常に大事だと思っていて。
性指向を周りに知られて欲しくないなっていう方もいらっしゃるでしょうし、なかには周りにもっと知って欲しいんだけどなかなか言い出せない、言うことができないっていう。

キ:タイミングだったり、この人には言ってもいいんだけど、その隣の隣の人にはちょっとあまり言って欲しくないということもあったり。それってすごく大事なことですけれども。
フラットに、一度フラットにしてみると、なんて言うんでしょう、やっぱりすとんと胸にある、私のような結構恵まれた環境、そういう意味では親も非常に私10代の頃から知っていて、宗教的な絡みが何もなくて、割とのびのびと、その部分に関しては自己表現をできた人なんですね。
私にとってもこの時点でそういう、すべての段差をなくしてフラットにするっていうことは気持ちいいんですね。ちょっとやっぱり違う目でフィルター、膜みたいなものが、自分が気付かなかったものが取れる気がするんですね。
まあそういうことはやっぱりあると思うし、見ている人も、まだできずに、あるいはせずにいる人が、そばからそれを見て何かを感じ取るということはすごく大事なことですね。
勇気を与えたり、すごくこう静かな共感を呼び起こしたり、いわゆる当事者じゃない人たちも、「この人ゴミの分別できるんだ」とか「乗り換えるとき人をちゃんと案内することができるんだ」とか、普通の人だということがたまたまレズビアンであるということとくっついて世の中に知れ渡っていくことはすごく大事だと思うんですよね。

安:まさにこう自然的ですよね。キャンベルさんの言葉を借りるのであれば、本当に自然にここにいるんだ、ここにいるよっていう声が何か共鳴し合うような感覚に近いと思うんですけれど、それって例えば色んな声があると思うんですね。
社会がみんな寛容になって優しくなるっていうことだけではなくて、やっぱり法整備ってものが必要なんじゃないか。
東京都ではじゃあこれから条例を整備していきましょうという動きが進んでいるわけですけれど。
この法的な面ではどういうふうに捉えていらっしゃいますか、必要性とか。

キ:私はやっぱり大きな一歩だと思いますね。
罰則がないということはありますけれど。ただ他の自治体とは異なって、理解をすすめることを定めているってことでなくて「差別をしてはいけない」ということが加わっているところが僕はミソだと思うんですね。
差別禁止するっていうことは、例えば僕は罰則がないにしても色んな企業の、これから社内の福利厚生ですとか、例えば転勤手当だとか遺族年金だとか、あとは職場でそれをフラットにしていく力になると思うし。
もう一つは、職場の上司とか同僚とか部下がLGBTと想定した場合にどう感じますかっていう、連合の2、3年前の調査があったんですけれど、36%くらいの人が嫌だって言うんですね。

安:まだそこまでの割合でいらっしゃるんですね。

キ:男性にすると47%。

安:ああもう半数近く。

キ:やっぱり嫌だって言うんですね。
そこから想像できるんだけど、職場のなかでやっぱりネタのように「アイツはホモだよね」とか「ゲイじゃねえか」とか言うことは、平気で酒の席じゃないところでも、職場で言われると、そうである人がすっごく気分が落ちたり、そこで何も言えなくなる。まさにふたをかけられてる、テープを巻き付けられてるような気分になるわけですね。
そうするとその人のポテンシャル、まさに本物の生産性というものが出し切れないでいる。やっぱりLGBTの人って離職率、転職率が高いっていうふうに言われるのが、居づらいんですよね。
だから禁止条例というものが、差別禁止条例というものが、それを一つやっぱり抑える効果が、私はやっぱり期待できるんじゃないかと。

安:そうですよね。やっぱり法律を整備することによって、少なくとも社会みんなで取り組むべきなんだっていう認識が生まれると思いますし。
まだまだそういうことも含めてお話伺いたかったんですけれど、そろそろあっという間に時間になってきましたので、最後に一言。
例えば「ここにいるよ」って自然に声を発せられる社会を築くために、キャンベルさん改めてどんなことが必要だと思いますか。

キ:私はやっぱり人の喜びや痛みをどこかで追体験することはできないと思うんですけれど、共感をしないまでも、知っておく、それがどういうことかっていうのを理解するってことはすごく大事なんですね。
まあ極端な言い方だけども、共感は要らない、理解してください、そして僕ら、私たちの色んなところで生きる、行動する、自由というものも一緒にシェアしていこう、そうすることによってみんなの幸せが増える。引き算じゃないんですよね。
そういう幸せが増える方向に持っていくためには、ひとつは理解と言うことはすごく大事かなと思います。

安:おっしゃるとおり、無知というのは差別を呼ぶかもしれない、でも知るということで最初の扉が開かれていくかもしれないということで、ぜひそういったことも含めて、またキャンベルさんのこと、この場も含めてまた触れさせていただきたいと思います。本日はお忙しいなかありがとうございました。

キ:こちらこそ、よい機会をありがとうございました。